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クチコミ情報
時代と芸術この2,3年の間に、素数の音楽 (新潮クレスト・ブックス)、西洋音楽史―「クラシック」の黄昏 (中公新書)、と読んで、三冊目がこの本である。つまり、数学や音楽、そして文学といった、一見時代の流れにはそれほど影響を受けていないかに思われる学問や芸術が、実はもろに時代の流れとともにあり、それぞれが折り重なってつながっているということを、非常に、おもしろく知ることになった。
この本でいうと、冒頭のジョン・ダンの詩の奇想でなるほどと納得したところから、ぐんぐん引き込まれた。ただ、私の少ない知識では、断片的になるほどと思っても、全体の流れを理解するには、もう1,2回は読まなければならないようだが。
高山節!こいつはべらぼうに面白い!
高山節炸裂である。
超英文学講義の名のとおり、
縦糸は英文学史だが縦横無尽に語られるのは、
History of ideas、
イギリス、そしてヨーロッパの精神史である。
初めて知ったのだが、王立協会の設立以来、
イギリス国民はひたすら構図し(収集し)、見て(解剖し)、記述する(分類する)ことに憑かれてきたわけだ。
小説はそんな認識から無関係な特権的地位を当時から持っていたはずも無く、当然といえるかな、そのような認識が産み落としたメディアのひとつに過ぎなかった、
てなことがさまざまな作品や作家の生涯を通して説得力たっぷりに、それはそれは饒舌に語られる。
たとえば、ガリバーとシャーロックホームズは
それぞれ顕微鏡とルーペという光学機器によって結び付いた兄弟といえるし、
当然その先祖には無人島中を測って測って測りまくったロビンソン・クルーソーがいたわけで、
見ることと真実の対応という意味じゃ解剖やカメラや観相術→優生学なんかも黙っちゃいられないわけで…。
そしてこのあくなき探究心あるいはスケベ心にひとたび火がつくや、
パノラマや博覧会やらデパートはじめ、諸商業施設(=見世物)の発達やフロイト先生のおかげもあったりなんかして、
もちろん魔術とテクノロジーの区別なんかぜんぜんありぁしない中で、
ちょっと怪しい方向へもぜんぜん行っちゃったりするわけで―
って要するに「見える」ことの「向こう」に真実を見る、
ってことは19世紀のオカルト・ロマン主義・幻想文学あるいはシュルレアリスムへ一直線なわけで―
と終始こんな調子で絵からテーブルから造園術まで、
近代精神の歩みを紡いで紡いで紡ぎまくる。
そしてまたこのハカセ、
OED(Oxford English Dictionary)を引いて引いて引きまくる!
圧巻とはまさにこのこと、
ヨーロッパ近代精神史の最良のブックガイドといえるかもしれない。
いや、ホントべらぼうに面白い!
19世紀からの欧州文化史を縦断的に見通した快著 文学−美術−哲学などのジャンルの垣根を超えて世界を縦断的に見通した時に何が分かってくるか?これに興味を抱く読者に打ってつけのテキストである。また、著者のまえがきによれば、美食や男女性愛くらいにしか快を見ない世間に対しては、(無関係と思っていた)「二つのものが一つと分かる」瞬間の知的「快」を感じ取る感性を促す啓蒙の書であり、「リンクを暴く」知の努力を疎ましがる旧套の学術志士に対しては、それで良いのかと問いただす糾弾の書でもある。
著者は、英文学の歴史において、シェークスピアの没後からデフォーの『ロビンソン・クルーソー』の出現までの約100年間(1616-1719)が活動停滞の空白期間となっている点に着目した。この空白期に「超」英文学の重要な秘密があると睨んだのが本書の契機らしい。
英文学を文学の視座のみから見つめても一番重要な事実は発見できない。「合理VS幻想」という批評的視点を棄て、近代を光のパラダイムとして捉える試みを全くの我流の方法で30年続け、無関係と思っていた二つのものを繋ぐ意識のリンクを暴く体験を繰り返すうちに、明確な一本の線が歴史の中を貫流しているのが見えてきた。本書はそのような知的冒険の報告書とのこと。
読者は、納得のいく我流を探り、それを続けることこそ重要であることを理解するだろう。
「二つのものが一つと分かる時の嬉しさ」とは、文学−美術−哲学などのジャンルを超えて文化史を縦断した時に見えてくる「関連性=横のリンク」を指し、そんな「リンク発見」の例が数多く紹介してあり楽しい。
冒頭近くに示される例では、没後40年後からシェークスピアの上演が封殺されていった社会的背景、それと関わるロンドン王立協会(40回/P35-135)や薔薇十字団(10回/P41-60)の存在、それらの動向と無関係でないコンピュータの発明、などについて分析を試みる箇所が圧巻。
他の頻出するキーワードには、(英国で流行った)グランドツアー、ピクチャレスク(50回/P23-28,138-181,234)、マニエリスム(77回)、魔術的哲学、ロビンソン・クルーソー、等々。
通読後に再読したくなるが、それは、一つには1度の通読では充分に咀嚼し切れないほど濃厚な内容であるが故にであり、また、パーティなどでのネタに持って来い?の「リンク」の例を全て記憶したい誘惑によるものである。
しかし、例出してある複数のリンクどうしのリンク性を見通した時に何が分かるか?これについては、その検討を読者に委ねている感があるからでもある。それを実行するには、重要項目を紙上に書き出しながらの再読が必要となるだろうが、これほど楽しい作業はないかも知れない。
視覚文化への招待英文学というよりも、シェイクスピアからコナン・ドイル(ホームズ)にかけての文化について、世界の認識の変化を言葉と視覚の遷移を通じて語っています。
したがって、個々の文学作品や文化的な要因は、独立した作品として扱われるのではなく、歴史の大きな流れの中の位置付けについて語られることになります。
本書を読んで初めて知ったことも多く、特に視覚面から文化を捉えるという考え方は、恥ずかしながらはじめて知りました。
多くの意味で考えさせられることも多く、これからも折に触れて読み返すだろうと思います。
もしも世界が百人の高山宏の村だったら 碩学といえば碩学、方々に話が散らばっていて、マニエリスムの見えざる糸を見出した
との瞬間のひらめきに狂喜乱舞する著者本人の興奮がダイレクトに伝わってくるような、
そんな一冊。
食い散らかしている、といえばその批判は極めて妥当なのだろうけれども、本人が何よりも
学問が楽しくて仕方のない人で、体系化とかに全く興味がないのだろうな、という感じ。
ある面では読者を無視している、といえばその通りかもしれない。
けれども、それ以上に、弾むようなその躍動感が素晴らしい。
楽しいからやる、それが悪いか――悪かろうはずがない。
ただし他の翻訳なんかにしても抜群にうまいけれども、いかにも癖の強い人だから、
彼一流の節回しへの好き嫌いはもろに出る、とは思う。
入門、と銘を打っているのだからこういう使い方もありだとは思うが、話題が方々に
飛び散ってくれているおかげと言うべきなのか、個人的には文献リストとしてもものすごく
お世話になった覚えがある。とりわけ頻出する『オックスフォード英語辞典』の底力は
今さらながらに驚嘆させられる。
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