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複雑系研究の啓蒙書:「べき乗則」の解説凍らせたジャガイモを壁にぶつけると、粉々の破片になるが、その破片は重さが2倍になるごとに破片の数は約6分の1になる。このような法則を「べき乗則」といい、世界のいたるところで観察されている。例えば地震で解放されるエネルギーが2倍になると、地震の起きる確率は4分の1になる。株式指標SP500の変動の大きさが2倍になると、その頻度は約16分の1になる。学術論文の引用回数が2倍になると、そのような論文の数は約8分の1になる。生物の科の絶滅の規模が2倍になると頻度は4分の1になる。
本書はこの「べき乗則」を中心に、非平衡物理学・自己組織的臨界・カオス・カタストロフィーにも言及している。また、本筋とは関係ないが、大学構内の踏み分け道の形成のシミュレーションを使用した研究にも触れている。
特に印象的だったのが、生物の大量絶滅は、進化の仕組みの中で例外的な出来事ではないということだった。
本書を読んで、ものの見方が一段階広がったような気がする。
偶然、積して文脈を成す同じ著者の『複雑な世界、単純な法則』が面白かったので、こちらも読了。「歴史科学」とか「歴史物理学」とかという奇怪なキーワードが出てくるが、ここで言う「歴史」とは、文明の変遷や戦争の勃発といった、通常用いられる意味の「歴史」ではなく、それらをも含んだ、より一般化された広い意味での「歴史」である。つまり、大小さまざまな「凍結した偶然」の積み重ねが次なる偶然がもたらす結果を大きく変えうるという、森羅万象に遍く見られる時間と文脈の相互作用のことである。
地震、結晶、進化、生態系、山火事の延焼などといった自然現象とそのシミュレーションから、いかに普遍的なパターンが見出せるかを概観した後で、経済現象や都市の発達、さらには我々が通常用いる意味での「歴史」やクーンのパラダイム論にまで、その試みを広げている。微視的には極めて単純な物理法則が働いているに過ぎないが、それが連鎖して「歴史」を帯びたとたんに、現象は人智に負えない魔物と化す。それはこれまで「物語」として語られるより他は無かった。「歴史科学」はようやくその影を描き始めたばかりだが、影を描くとこまでしかできないことも同時に明らかである。
改めて因果とは何かを考えさせられる。何事にも決定的な原因などはない。あらゆる出来事の背景には、知るべくもない程おびただしい数の必要条件がただただ横たわっているだけである。それら必要条件が足並みをそろえることで発現できたその十分条件もまた、無数のありえた可能性のうちの一つに過ぎないのだ。我々はそこに「意思」や「責任」や「運命」といった幻影を描かなければ生きていけない定めなのだろう。
ところで、この本で描かれる個人としての人間は、マクロなパターンを見せる社会現象を構成する要素であり、量子力学における粒子と同じく、個々人の運命や振る舞いまでは分からないことになっている。しかし、個人もまた、持って生まれた気質や遺伝子を土台として、出会いと経験の数だけ、志向と能力と価値観を淘汰されてきた「歴史」的産物である。著者は気づいていないかもしれないが、そうした個々人のライフヒストリーもまた、物語として語られるばかりでなく、何らかのマクロなパターンやミクロな物理法則をそこに描き出せるのではないだろうか。“Luck is what happens when preparation meets opportunity. (By Randy Pausch)”とは、本書で言う「臨界状態」に他ならない。
冪乗則のもつ深遠な重要性「冪乗則が成り立つ場合、幾何学的には典型的な大きさというものはない」
「冪法則の分布にはピークが現れない。そして冪法則の曲線はなめらかに減少する。
これは、小さな度数をもつたくさんの事象と、
大きな度数をもつ少数の事象とが共存していることを意味している(バラバシ著『新ネットワーク思考』)」
冪乗則の深遠な解釈に酔った・・・
冪乗則に従う事象に関しては、地震に代表されるように、
「大きな地震が小さな地震とは違う原因で起こると示唆するものは、まったく何もないのである。
大きな地震が特別なものである理由がないという事実は、
小さな地震を引き起こすものと大きな地震を引き起こすものはまったく同じであるという、逆説的な結果を示唆している。
この考え方にもとづけば、大地震に対する特別な説明を探しても意味がないことになる。
そこには、我々の足元で絶えず起こっている微小な振動と比べて、特別で異常なことは何もないのだ」
「大規模な出来事は小規模な出来事を単に拡大したものにすぎず、それらは同じ原因で発生する」・・・
故に、大地震(=微小な振動の自己組織化)の予測は、不可能ということだ。
「自然は普通、ベキ法則を嫌うものである。通常の系では、どんな量も釣り鐘型の分布(=正規分布)をとり、
指数法則に従って急速に減少する。ところが、系が相転移(無秩序相⇒秩序相)をしなければならない事態に追い込まれると、
状況は一変してベキ法則が現れる(バラバシ著『新ネットワーク思考』)」
冪乗則に従う事象を "臨界状態(無秩序相と秩序相の共存)" の観点から解釈され、とても楽しく読ませていただいた。
「ベキ乗則が成り立つということは、系が自己組織化しているかもしれないと考えられる(ストロガッツ著『SYNC』」)」
ところで、自己組織化≡同じ法則の累積、と定義する限り、予測不可能性を特別視する必要はない。
同じ法則の繰り返し過程には、相変わらず、複雑系的な解釈、つまり、非線形的な解釈が入り込んでおり、
確率が支配せざるを得ず、冪乗則を統計的に確認するまでもなく、予測不可能であることは当たり前だからだ。
同じ法則の非線形的累積(著者いうところの自己組織化)が、あらゆるスケールで等しく成り立つ(スケール不変性)場合、
冪乗則(スケールフリー性)が創発する(ケネス・ウィルソン)ということだ。
自己組織化+スケール不変性 ⇒ 冪乗則であっても、その逆(冪乗則 ⇒ 自己組織化)が成り立つためには、
スケール不変性(物理法則があらゆるスケールで等しく成り立つこと)が担保されている必要がある。
”臨界状態”のイメージが膨らみました カエルには動くものしか見えない、のと同じく、人間も感覚器官がとらえたもの全てを認知しているわけではなく、意味のあるターゲットに集中しているのではないかと思いますが、臨界状態はそのひとつではないでしょうか。関心にバイアスがかかっているのかもしれません。
複雑系関連の書籍で頻繁に出現する”臨界”という言葉の理解が本書で一段進みました。平衡状態とランダムの間の界面、というイメージでとらえていたため、特殊なレアケースのようなもののような気がしており、なぜそこにいろいろな話題が集中するのか、直感的には理解できていませんでした。冪乗則の事例としてでてくる、地震、砂山の雪崩、論文の引用、戦争の規模、といった現象等も新鮮です。最近では、インターネット等を題材にした類書が何冊かでていますが、科学の世界での冪乗則の発見と分析の歴史の重みに感じ入りました。
ただし、他の方が「タイトルの通俗性」を指摘されているのは同感です。原書の存在は早くから知っていましたが、訳書のタイトル、紹介文に魅力を感じなかったので少し間が空いてしまいました。
現代のピタゴラス派? 同じ著者の「複雑な世界、単純な法則」が面白かったので、遡って読んでみた。面白かった。処女作らしい初々しさが感じられたし、著者が「複雑な~」を書いた必然性も理解できた。 ただしタイトルの通俗性には不満。特に副題がミスリーディング。原題はubiquity=「遍在(性)」であり、物理現象から社会現象にいたるあらゆる局面での臨界状態に冪乗則が見出されるという含意。これは事象の集合レベルで現れるパタンの問題であって、「科学は大事件を予知できるか」という問いかけに対しては、著者は不可能とハッキリ言っているではないか。 もっとも、著者が次にネットワーク論に向かったことは、パタン生成の原理を解明したいという関心の現れと思われる。これにより、本書末でも示唆されていたように、従来のような因果連鎖的な予知とは異なる予知が可能になるかもしれない。 私が特に関心を持ったのは、p114辺りからの「臨界状態の数学的特徴は、その物事の詳細にはほとんど依存しない」「臨界状態にある物事に関して、その本質的な組織構造を理解するときには、いくつかの真に重要な特徴を無視しないかぎり、他のどんな詳細を無視しても構わない」といった主張。しかも著者はこれを、社会現象にまで拡張する。まさにシミュレーション主義の思想。森羅万象は本質的にコンピュータの中で再現できるわけだ…しかし、本当か? 本当に本当か? 私はこのような立場を、ピタゴラス派の復権のように感じる。ubiquityとは、神の遍在をも意味する言葉だ。本書の議論は、神学者にも受け入れやすいものではないか? 本書を楽しみながらも、しかし私は、「だからどうした」とも考え続けている。だって集合レベルで顕現するパタンは、私の人生にも、また未来に向けた人々の決断にも関わることがないように思うから。
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