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ニーチェと、あの人 以下のような文章は、興味深く読んだ。
深い苦悩を味わったすべての人は、精神的な自負心と吐き気を感じているものだ。(中略)こうした人は、自分の苦悩のために、もっとも賢い人やもっとも知恵のある人が知りうる以上のことを知っているという確信を抱き、その確信によって彩られているのである。
自分について多くを語るのは、自分を隠す手段でもある。
大政治家、征服者、発見者などは、もはや見分けがたくなるまでに、自分の創造したもののうちに変装している。じつは「作品」こそが、芸術家や哲学者の創造した「作品」こそが、それを創造したとされる者を作り出すのだ。(中略)彼らはしばしば飛翔を試みるが、それはあまりにも拭いさりがたい記憶を忘却したいがためである。泥のなかにはまりこんで、ほとんど耽溺してしまうことが多いし、沼の周囲をさ迷う鬼火のようになって、しかも自分を星だと偽る(中略)彼らはまた長く去らない吐き気と闘い、繰り返し訪れる不信の幽霊と闘うが、この幽霊こそが彼らを冷たくし、栄光を焦がれ求めさせる
やがて私は、ひとりの作家が放った言葉たちを、ニーチェのそれと並べていた。
叡慮ハ是非ヲ越エタモノデス(「右大臣実朝」)
愛によってなされたことは、つねに善悪の彼岸にある。(本書)
人間は、みな、同じものだ。
これは、いつたい、思想でせうか。僕はこの不思議な言葉を発明したひとは、宗教家でも哲学者でも芸術家でもないやうに思ひます。民衆の酒場からわいて出た言葉です。(中略)
この不思議な言葉は、民主主義とも、またマルキシズムとも、全然無関係のものなのです。それは、かならず、酒場に於いて醜男が美男子に向かつて投げつけた言葉です。ただの、イライラです。嫉妬です。思想でも何でも、ありやしないんです。(「斜陽」)
イエスの生涯について語られている聖なる寓話や仮装のもとには、愛についての知のもっとも痛ましい実例が潜んでいることは、十分に考えられることなのだ。きわめて無辜であり、きわめて強く欲望する[イエスの]魂が殉教したのだ。この魂はいかなる人間の愛にも満足できず、愛することと愛されること、ただそれだけを渇望したのである。そして過酷であり、ほとんど狂っていて、[みずからの]愛を拒む者には恐るべき激怒を向けたのだ。愛に於いて飽くことを知らず、足ることを知らなかった哀れな者の歴史である。(本書)
私は、それ以来、人間はこの現実の世界と、それから、もうひとつの睡眠の中の世界と、二つの世界に於いて生活してゐるものであつて、この二つの世界の体験の錯雜し、混迷してゐるところに謂はば全人生とでもいつたものがあるのではあるまいか、と考へるやうになつた。(「フォスフォレッスセンス」)
「昼にあったことが、夜に起こる」というが、その反対のこともある。わたしたちが夢の中で体験することは、それが何度も繰り返されると、わたしたちの魂の全体の構成のうちの一つの要素となり、「現実に」生きられた経験のようになってしまうものである。(本書)
なんにでもなれるのである。(中略)女性の細胞は、全く容易に、動物のそれに化することが、できるものなのである。(中略)一夜彼女が非常に巨大の無氣味の魚を、たしなみを忘れて食ひ盡し、あとでなんだかその魚の姿が心に殘る。女性の心に深く殘るといふことは、すなわちそろそろ、肉體の細胞の変化がはじまつてゐる證拠なのである。(中略)教訓。「女性は、たしなみを忘れてはならぬ。」(「女人訓戒」)
わたしたち男は、女が啓蒙によって自分の恥をさらしつづけないことを願うものである。(中略)〈女は女のことに口を開くなかれ!〉と呼び掛ける者こそ、女性の真の友であると思うのだ。(本書)
れいによって、ひどくだらしないレヴューになってしまった。お粗末さまでした。
正義を貫く姿勢を───一通り目を通して、私には深く理解することが
できなかったと、正直に告白しよう。
ニーチェの考えた思想の連関を100%どころか
10%すら見えていなかったのではないだろうか。
「ツァラトゥストラかく語りき」「善悪の彼岸」「道徳の系譜学」
これが一連のニーチェの思想のつながりある作品群です。
当時、「ツァラトゥストラかく語りき」が不発に終わり、
改めてニーチェの言葉で「善悪の彼岸」を発表し、
「道徳の系譜学」でさらにテーマを掘り下げたとされる。
ニーチェはそれらに巧みな魔法の仕掛けをして、
読者はつぶさに見逃さないように読み進めなければ、
思想の連関を把握し得ないという作りになっている。
私は気付かず通り過ぎてしまった。
特に優れた読者ではないけど、全くもって見えなかった。
これが理解できる人はそれだけで凄いと拍手を送りたい。
それほどニーチェの仕掛けた魔法は分かりづらいものです。
文意がすっと胸に落ちる名訳「真理が女であると考えてみては――、どうだろう?」という有名な書き出しで知られる本書は、ニーチェの主著といってもよいだろう。『ツァラトゥストラ』のように詩的に舞い上がることなく、『道徳の系譜学』のような論文様式でもなく、いかにもニーチェらしい鋭いアフォリズム形式で書かれており、どこを読んでもその卓抜な表現に唸らされる。内容的にも、キリスト教道徳、西洋形而上学、西洋近代への批判、通俗的なものと高貴なもの、学問批判、ワーグナー論、女性論、力への意志、超人思想など、ニーチェ哲学の諸要素がバランスよく盛り込まれている。本書を通読すると、ニーチェは20世紀のデリダ等に連なるポストモダン思想家であることがよく分かる。中山氏の新訳は明晰で切れがよく、一読して意味の核心がすっと胸に落ちる。例えば、新約聖書があまり出来のよくないギリシア語で書かれていることを皮肉った§121を、既訳と比べてみよう。「げに意味深いかな――。神が著作家たらんとしたとき、まずギリシア語を学び、しかも平人以上によくは学ばなかった」(竹山道雄訳、新潮文庫)。「神が著作家になろうとしたとき、ギリシア語を学び、――しかも普通より以上によく学ばなければならなかったことは、何とも妙味のあることだ」(木場深定訳、岩波文庫)。「神が物書きになろうとしたとき、ギリシア語を学んだということは味のあることだ。――しかもあまりよく出来なかったということも」(本訳)
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