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クチコミ情報
映像美 この映画はストーリーだけ追おうとすると挫折する。タルコフスキーらしく作中で詩を朗読してみたり、主人公が人生の苦況から思わせぶりな台詞を吐かせたり、いわゆる「文学臭」がなくはない。エピソードも「脈絡がない」ように見える。でも映像美は素晴らしい。漆喰が崩れる幻想的な場面や、風になびく草原とかほんとうに独自の世界だ。映画の最後に衝撃的なヨハネ受難曲にのせて草原を年老いた母が孫たちの手を引いて行く場面は映画史に残る。
タルコフスキーの到達点 この作品は、アンドレイ・タルコフスキーのもっとも自伝的かつ個人的な作品であると同時に、世界平和をも志向したダイナミックな視点をもっているところが魅力。一見、他人からすれば無秩序に並べられている主人公の過去、現在、未来そして夢の映像も主人公の心の中では脈々とつながって生起したイメージであろう。
見終わってから、タルコフスキーは本気で世界中の人が平和や幸せになることを祈れば、それが訪れると信じていたのではないかと思った。タルコフスキーはしばしばお手軽に映像詩人と称されるけれど、本当は映像を使って世界で始めて祈祷をした人と位置づけるほうがふさわしいのではないかと思った。
作品の根源にある感情は、絶望であると思う。ただ、この作品は絶望的な状況にありながら希望が訪れることを切望している、その望むという行為の力強さに感動させられる。
最後に、私が感じたタルコフスキーの作家としての限界。タルコフスキーは物事を突き放して捉えることがあまり得意ではない。自分の内側にある感情を、自分のこととして表現することに長けていたと思う。それがゆえに、彼はコメディーが撮れなかった。決して、作品を貶める意図を持って、この段落を書いているわけではないけれど、映画という大きな世界の中でタルコフスキーがどこに住んでいるのか、漠然なりとも位置づける試みが必要だと思ったから。
とても漠然として、あいまいなレビューになってしまったけれど、こればかりは見るしかない。
言葉で縛られた魂の解放。よく論評として言われているように、タルコフスキーの自伝なので彼にしか分からないのかもしれませんし、分からないので映像的な美しさを伝えるしかないのかもしえません。母や父に対する思いや自分の子供に対する思いは本人にしかわからないと思いますが、、、僕は「言葉で縛られた魂の解放」をテーマにしているような気がします。冒頭の吃りの子供が催眠術で治り、「何でも喋れるようになる。」こと、それに続く「植物も感じたり記憶したり理解したりできるが、人はくだらないことを喋る。言葉なんかでは気持ちが表現できない。」その後の母の記憶の中での「活字の間違い。」を気にして印刷所に駆け込むシーン。たぶんこのようなシーンが意味することは、言葉からの魂の解放だと感じます。感じることが大切であると、、、。だから、彼は映像詩で表現しているのだろうと思います。この映画の核は、決して単なる彼の自伝や幼い頃の記憶を見せて、彼の自伝記憶を伝えたいのではないのだと思います。言いたいのは、「言葉」だけでは意味をなさず、情報量の多い「映像」でこそ、感じるものを創れるという彼のマニフェスト(宣言)なのではないでしょうか。簡単に言うと「キレイな夕焼け」と言葉で表現するのは全く意味をなさず、その夕焼けを見せて、色や風や温度やすべてを見る側に委ねるというようなことでしょうか。映画には、いろいろな評論で言われているように、無論、自伝的な隠喩も隠されており、キリスト教と共産主義そしてブルジョアとの狭間、中国の革命やヒットラーの死体や原爆を見せることで、生きるということが家族や人間関係だけではなく社会的な影響を多大に受けるということ、彼の共産主義からの亡命を仄めかすところや、自分は頑固だったことなど個人的性格を表現しているところもあります。しかし、僕はやはりなんといっても、「言葉」という皮肉にも人にしか備わっていない高度なコミニュケーション方法から、「伝えたいこと」=「その映画のコアアイデア」=「魂」を解放する、彼の宣言映画に見えてなりません。そのアイコンとして十字架というビジュアルも存在するのだと思います。十字架の意味することは、たぶん、「言葉にされた教義」ではなく、絶対的な神の存在を感じることや、祈ることを視覚化したのだと思います。
意味論はこれぐらいにして、、映像はとにかく美しい詩でした。学生の頃は眠くなりましたが、、現在は僕にとって、非常に目が冴えわたる映画です。たぶん映画館が暗かったから?(笑)
映画は最高、でも画質は今回もだめ以前ivcで販売しているタルコフスキーのDVDを買って
画質の悪さにがっくり来ましたが、
今回デジタルリマスターと銘打っていたので
買ってみました。
画質は、まあギリギリ見れるレベルと言えるでしょうか。
でもかつてあちこちの映画館で再上映されていた映像と比較すると、
年月が経過して段々色彩が劣化しているのは明らかです。
経年劣化は致し方のないこととはいえ、
映像の美しさが身の上のタルコフスキーの映画として考えると、
やはり悲しいことです。
IVCのノスタルジアもそうでしたが、
場面によって遜色の度合いがあるようで、
例えばラストシーンも、多分午後から夕方くらいだとは思うのですが、
空の色を見ると撮影当初より恐らく赤みかかっているのではないでしょうか。
久しぶりにもう一度この映画をみて、
自由度の高さに驚きました。
まったく、いつの時代のどこの国の映画であるかなどと
考える必要は無いように思います。
ボーナストラックのインタビューでヤブリンスキーも言ってますが、
体制が崩壊しても創造的な作品が出てくるということはないわけで、
資本主義国家であっても精神的な面での妥協や才能の上での凡庸さは、
免れることは出来ません。
鏡は、後の作品と較べると、ストップモーションもあり、
頻繁な場面転換ありで、いわゆる長回し多用一辺倒ではないですが、
今改めてみても決して古臭くなく、勢いのようなものがあると思います。
印象的なイメージがたくさん出現するというのに、
タルコフスキーだけがイメージビデオ風の映画にはならないのは、
やはり不思議です。
体験する映像・・夢魔か、楽園幻視か?「僕の村は戦場だった」を見て、その繊細かつ鮮烈な映像と、悲劇でありながら、
ラストシーンの眩しい美しさに、このロシアの監督の非凡な才能を感じた。
それから、岩波ホールで「鏡」を見ることとなる。
「ぼくの・・」は物語を追うことができたが、「鏡」はまったく異質の映画だった。
主人公の意識の具象化のように、過去のさまざまな記憶の像が、戦時下の
ドキュメントフィルムと混じりながら、表出する作りで、長く引き伸ばされた
実験映画をみるような印象・・・全体が茫漠として、時おりバッハが響き渡り、
はっと息を呑むような映像に身体の芯まで浸かるような感じであった。
だが、睡魔にも襲われたのだった・・・。
見終わったその日の夜。
一体何の映画だったのだ、という想いをひきずったまま寝床に・・。
すると、何度も映画の場面が脳裏に蘇っては消えるということの繰りかえしで
寝つけなくなってしまった。「鏡」の世界に身も心も捕らわれてしまったのである。
数日後にもう1度「鏡」を見て、やっと、五感と直感と霊感(?)で
「わかった」のであった。そう、これは体感しなければならない「体験コーナー」の
ようなもの。視覚と聴覚を先入観なしにひたすら映画にゆだね、時おり朗読される
詩の言葉を頼りに、悔い、思い出、喜び、悲嘆、憎悪、希望、夢などのねじれ、
混ぜ込まれた、様々な記憶の深い底に落ち、再び、浮上して、昇華していく、
言い換えると、この世の悲嘆と苦しみから解放され、楽園を夢見る・・そのための
映画なのだ。
だから、うっかりすると、その底にはまって漂い、ついに浮上できなくなる
危険な体験でもあるのだ。
私は、いまだこれを超える映像体験をしたことはない。2度は見ることをお勧めします。
1度では、記憶の淵に佇むだけで終わってしまうでしょうから。
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