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クチコミ情報
もちろんこの本が「正解」ではないけども、星は五つでしょ。 他レビューの多くが指摘するのは、この本の思想的未熟さ、未完成さだ。それは確かにある。作者若いし。
それでも現代日本のサブカルを語る上で(あるいは現代日本それ自体を語る上で)確実に押さえておくべき本だと思います。
一冊の書として、確実に「買い」です。
なんといっても、その分析が正鵠を得ている。同じ時代を生きてきたから言う訳ではないけども、『ポストモダン状況が推し進められた結果、いわゆるセカイ系が生まれ、更にその結果として<サヴァイブ系>とでも呼ぶべき作品傾向が生まれた』という分析は、ほとんど本能的なレベルで正しいと感じる。九十年代とゼロ年代を端的に二分して考えることも、意外と無かった新しい分析だ。作者は本書冒頭でそのことを現代批評の怠慢だと断罪したりもする。これは正しいでしょう。
商業的成功をそのまま社会にもたらした影響力、社会とのシンクロ力と看做すやりかたは、もちろん恣意的だったりするのだろうけど、本書が(そして本書を取り巻くポストモダン状況が)明らかにしているのは、「そうした恣意性を敢えて選択しなければもはや何も語れない」という現実だ。主要な論客を片っ端からけなし、主要なサブカル作品を片っ端から己のテーゼに沿って分析するというやり方は、それ自体として<サヴァイブ系>の論述であるが故なのである。
結論は、間違っていると僕も思う。でもそれならそれで、それはこの本を読んだ人が「じゃあ何が正しいのか」と考えれば良いだけのことがあって、この本を読まずに<サヴァイブ系>な現代を考えるというのは、ほとんど不可能か、少なくとも不誠実であるように思うのだ。
若者に評論の快感を知らせる本内容についての同意・反論・概括は
他のレビュアーの方に譲るとして、本書の意義について。
「評論」というものが、人々の生活から思い切り遠い存在になってしまった今、
若い層が「評論的なるもの」に触れる機会は激減した。
文学批評を読もうにも、そもそも「文学」というものが絶対数として少なく、
映画批評を読もうにも、映画評論家は死にかけのジジイ共が安全なサークル内で
仲良し馴れ合い学級会を行っているだけ(のように見える)。
少なくとも、外に向けた言語では綴られていない。
では、今の日本で、体系的批評をしうる素材として
潤沢に「数」が用意されているものは何かと言えば
国産アニメと、TVゲームと、ライトノベルである。
宇野氏は、それらを実際に浴びるように体験した
「中の住人」としての経験値を携えながら、
ちゃんと「外部の言葉」で縦横無尽に体系化していく。
これが、批評だ。
しかも、俎上に上がっている素材は、中学生でも触れられるものばかり。
普段慣れ親しみ愛玩している対象が、オトナの言葉で「規定」された時、
中学生の彼らは、はじめて「批評」というものの意味を知る。
物事に太い輪郭をつけることの快楽を味わうのだ。
若人の批評体験を提供してくれる書として、
その意義を大きく評価して良いと思う。
内容が多少強引なところもあろう、主観に寄り過ぎた決め付けがなくもない。
しかし批評など、思い込みと偏りの産物だ。
むしろ、極論ほど読んでいて面白いものはない。
若人は、偏りの快感を入り口に、言葉と戯れる快感に気づくのだから。
素朴なサブカルの社会反映論筆者はまず、2000年以降つまりゼロ年代の批評の空白、批評家たちの怠惰を責め、東浩紀的なひきこもり=セカイ系的想像力が、もはや古いという視点に立っていることを明示。東以降のエピゴーネンも含め、ひきこもり=セカイ系に内属すること自体が一つの排他的な暴力であり、一つの立場を選んだ「決断主義」であると指摘。本書では、その決断主義の地平をコミュニケーションを駆使して生き抜く「サヴァイブ系」なるものの台頭を、サブカルを通じて論ずる。
帯でかの宮台真司が推薦文を書いてるが、読んでみると著者は文体からして宮台の影響をものすごく受けていることがわかる。しかし、内容には筋が通っているもののその土台となる「大前提自体が間違ってやしないか?」という疑問が浮かぶのも、哀しいかな宮台と似てしまっている。
エヴァやAIR等のギャルゲーをあげつらい、「零落したマッチョイズム」と批判している。しかし、特に後者は消費者にとってのマスターベーションファンタジーとして扱われているきらいが高い。有り体に言えば「おかず」なのであるから、それらをクドカンなどの他のサブカルと同列に扱い批判するのには、ちと無理がないか?もっとも、「それら」を最初に批評活動の土台に挙げたのは大塚英志や東であり、この著者は彼らの大前提に乗って議論を組み立てていると言える。
そもそも、「東的なるもの」というのはオタク文化であり、いくらそれが広大していようと、日本の全人口の何割がオタクなのだろうか、という話だ。批判の矛先があまりにも近視眼的すぎる。そしてさらに言えば、彼らが引きこもるのには理由があり、それはコミュニケーションに敗れたからだ。そんな彼らに、「それはマッチョイズムだ!」だなんて。
とどめを刺してどうする(笑)
この人の結論は、ハーバマスのポストモダニズム批判と似ている所がある。パースパクティブ的、相対主義的なポストモダンにおいても、対話による理性の構築は可能であると。
だが、これはハーバマスにも向けられる疑問だが、そんなこと実際に可能なのか?そして、コミュニケーション自体に参与しない「他者」はどうするんだ?誰とでもコミュニケーションをとれるという前提に立っていることこそが、近代的な、いわばマッチョイズムではないのか?
コンテンツに関する膨大な知識量には舌を巻くが、それらひとつひとつの解釈を数珠つなぎのように連結していく作業が、あまりにも恣意的すぎていて怪しい。ロリコンの一大勢力でかつ、日本中で大ヒットした宮崎アニメが全く論じられていないのにも疑問が残る。そしてそれら作品と社会が、どうつながっているのか、この人は精査しているのか。社会学にありがちな素朴な作品の社会反映論だろう。
何よりも、この人は批評家としてどうなの?と思う箇所がある。
東的な想像力は古く、それに対してサヴァイブ系(この人は限りなく「俺の」と言いたいのだろうが)の想像力は新しい。前者は過去であり、後者が最先端。そして、つきつめれば新しいからこそサヴァイブ系が「正しい」のだと。まともに考えて、みなさんはこれが批評行為と言えるだろうか。僕は絶対にそうだとは認めたくはない。
このリニア的で、時代は常に移ろい、それを代表する価値観は常に一つという考え方は再考できないのか。ひきこもり=セカイ系の想像力とも共存できるのが、真のサヴァイブ系、ではないだろうか?
ナイーブ過ぎる書き手だと思うが今後に期待するついに同い年でこんな本を出す書き手が出てきた。必ずしも論旨に感心するわけではないが興味深く読んだ。
サブカル(特にライトノベル、ゲーム、アニメ)を広範に批評の対象とするスタイルは東浩紀に似ているが、宇野は東を批判の対象としている。たとえば東の美少女ゲーム論はゲーマーの自己肯定に過ぎず、批判的視点が欠けている、と。
その内容は、というと簡単に言うと以下の通り。
90年代はみんながアイデンティティを喪失している時代だった。なんで生きているのか、何のために生きるのか、疑問に思っていた。文化的な表象にもそれがあらわれていて、たとえば碇シンジの苦悩がうけた(「エヴァンゲリオン」)。自己肯定的な美少女ゲームがヒットした。
00年代初頭は、「いや、そんな悩んでたら生きていけないじゃん、キャラとか積極的に作っていかないといけないし、価値観とかっててきとうになんか決めない(=決断)とだめでしょ」という認識(「サヴァイブ感」)が主流になった。『バトルロワイヤル』、『リアル鬼ごっこ』、『Death Note』とか。こういう行動様式を、宇野は「決断主義」と呼んで批判し、そういった傷つけあいを回避する回路を探り出そうとしている。
ここまではよい。しかし「決断主義の超克」を目指す宇野が探し当てたのは何か。宇野は、たとえば『木更津キャッツアイ』なんかに見られるような、ゆるやかな、擬似家族的な共同体の構成を目指すことが、決断主義の回避につながるという。人が決断主義に陥るのは、生きるために何らかの物語を必要とするからであるそうな。で、物語はどこにあるか。『DEEP LOVE』みたいな波乱万丈(すぎる)のが物語か。必ずしもそうではない。
<そして現代とは、第七章で取り上げた『木更津キャッツアイ』や『下妻物語』といった優れた郊外小説が描くように、自分から手を伸ばせた、日常の中から未だかつてなく自由に物語を掴み取ることができる世の中なのだ。> (p. 290)
ナイーブな結論だと思うし、これって「超克」とか大層なものじゃあなくて、単に一時的な流行なんじゃないかという気がする。引きこもるのも疲れたし・飽きたし、バトルロワイヤルずっとやってるのもしんどいし、ちょっと身近なところでほんわか生活したいっすね、って、そんなところじゃないか。そういう時代の気分をクドカンなんかが先取りして描き、ヒットさせたんだろう。3年後くらいには、いやこんな身近でぼんやりしてるのもいいんだけど、そろそろすごい冒険したいっすね、って気分になるかもしれない。
テレがないしナイーブ過ぎるところが気になるんだが、読解の仕方はおもしろいし、53年組へのエールをこめて☆4つ。
この10年誰も書かなかったし、書けなかった本フランス現代思想の研究者兼サブ・カルチャー評論家である東浩紀と、あの宮台真司をもっとも的確に理解し、批評の世界において、両者の理論の批判的継承者となりつつある著者のデビュー作が本書である。
90〜00年代の文化現象について、ここまで的確に解説した本と批評家は、なんのかんのいって、他には存在していない。
内容を要約すると、いわゆるシンプルな社会反映論である。
この約10年間の社会の変化は、物語にどのように影響を及ぼしたのか?そして、いま、何がアクチュアルなのか?
ひとつの作品、一人の作家にこだわるのではなく、著者のアンテナに引っかかった、もしくは、世間で話題になっている作品を、ジャンル横断的にとりあげ、一見バラバラに見えるそれらの作品のテーマが実は似通っていることを指摘するという、数で勝負というか、ある意味統計的な批評スタイルは相当ユニークである。
荒いところも多いが、すくなくとも、こんな本は、この10年誰も書かなかったし、書けなかった。
そういう意味で本書は貴重といっていいだろう。
また「友達をつくれ」という、ある意味素朴に感じられる本書の結論は、もちろん「比喩」ではあるが、それと同時に実存の問題を、世界の問題にすりかえて、難渋に語ってみせる、自意識過多なぷちインテリたちに向けられた「実戦的アドバイス」でもある。
なんとなく知的で繊細そうな文体で書かれているものが批評であり、それを好むのが読書人なのだという、批評の一般的イメージを裏切る、著者の断定的かつアグレッシブな物言いと、偽悪的態度は多くの物議をかもしだしているが、しかし、肯定するにしろ、否定するにしろ、無視したフリをするにしろ、本書が昨今のサブ・カルチャー批評の流れを変えた一作であることは間違いない。
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